ゆゆしき事態

いやー
全然本を買う気にならない。
このところずっとそうだ。
土曜の昼下がり、ニコライ堂からえんえん大手町まで歩いて、まだ時間もあることだし、と丸善に立ち寄ったのに、これっぽっちも。
食指が動かなかった。
面白そうだなあ、と思っても、じゃあその本を手にとってレジに並ぶかというと、これがまったくそういう気にならない。
これだけの本を目の前にしても、心が弾まないのだ。
部屋に本が溢れているからか?
本が多いとはいえ、草森紳一さんほどじゃない。足の踏み場はちゃんとある。
本棚に入りきらない本がテーブルの両側に積み上がり、そのうえ床にも、本を詰め込んだ紙袋がふたつほどあったりするが、これが心の重荷になっている、のだろうか。
買ってもどうせいずれは売ることになる。
そのうえ中身もたいがいは忘れる。
それでも本を買うのか。
しかし、本は買わねば一期一会でもう出会えないこともある。
けれど買えばまた、床置きの紙袋が増える…
本はなぜ増えるのか。買うからである。
草森さんの名言だ。
売るとわかっていて、忘れるとわかっていて、なのに買わずにはいられない書籍中毒、文字中毒。
けれど今の自分はきっと、たぶん、閾値を超えてしまったのだろう。
読みたくて読んでいるのか、
売るために読んでいるのか、
もはや不明だ。
読書人などという高尚なものにはなれそうもない。
ただもう、リスがくるくると車輪を回すように、次々と読んで売って読んで売って。
終わることなき文字のカルマ。

1486夜『本が崩れる』草森紳一|松岡正剛の千夜千冊

◆新しい元号が「令和」になった。中西進さんの提案だ。天平2年、太宰府の大伴旅人邸での梅花の宴で詠んだ32首の和歌に付けられた「序」からの採字である。ついに和書が出典になったと政府も巷間も沸いてはいるが、万葉集の「初春令月気淑風和」は『文選』の「仲春令月時和気清」からの翻文なので、「まるごとニッポン」というわけではない。王羲之の香りがする。◆昭和の「和」がはやくも再使用されたのも、どうか。選考プロセスが堅すぎたのではないか。中西さんなら、そのへんの相談をすればもっと代案をつくってくれただろうに。万葉秀歌や古今集や源氏にブラウジングしてもよかったのである。『古今集』の真名序と仮名序の対比、藤原公任の『和漢朗詠集』の漢詩と和歌の重畳対比からして、すでに和漢をまたいだうえでの「まるごとニッポン」の試みなのだ。◆これは冗談だが、マンガなどで遊んでくれるといいのだけれど、ヴァーチャルには仮名の元号があっても、おもしろい。たとえば「てふてふ元年」とか。マンガにでもなると末次由紀の『ちはやふる』(講談社)以上のものになるかもしれない。◆それはそれとして、改元発表で万葉集が本屋に一挙に並んだ。このまま万葉ブームがくるのかどうか知らないが、これはこれでおおいに結構なことだ。ただしかなりの歌数なので、うまく遊べるかどうか。斎藤茂吉の『万葉秀歌』(岩波新書)、それこそ中西さんの『万葉の秀歌』(ちくま学芸文庫)、ビギナーズ・クラシック『万葉集』(角川ソフィア文庫)あたりで愉しむのがいいだろう。上野誠や鈴木日出男のものも入りやすい。ぼくとしては折口信夫の『口訳万葉集』(岩波現代文庫)を推したい。◆万葉は日本人が「歌を詠む」という行為がいったいどういうものだったかということを、明かしてくれているものだ。日本人のリプレゼンテーションの方法がわかる。それは一言でいえば「寄物陳思」と「正述心緒」だ。「物に寄せて思いを陳(のべ)る」か、それとも「正に心の動きの端緒を詠む」か、この二つだ。むろん、日本語のリズム(律)や枕詞や歌語・縁語のルーツもわかる。ぼくは人麻呂の「代作性」に関心をもってから、万葉が詠みやすくなった。◆アーティストとしての万葉に溺れたいなら、歌人別に読んだほうがいい。万葉はアートだから。入門的には「コレクション日本歌人選」(笠間書院)がとてもよくできている。人麻呂、額田王、憶良、家持、東

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陽は中天を過ぎて 2nd season

第二人生。 ここから歩いていこう、 鮮やかな夕映えのなかを。 大丈夫、自分はまだ生きている。

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