川は終わる、けれど終わらない。
「ボルガ いのちの旅」澤地久枝
露文専攻以外で、ネクラーソフやチェルヌィシェフスキーの名前を知っている人がはたしてどれだけいるだろう。
澤地さんは大学紛争が盛んな時代に学生生活を送ったからか、彼らの名前には非常になじみがあり、ネクラーソフの詩の言葉を胸に抱えて生きてきた。
文学の妙味だ。
時間も場所も隔たって直接には出逢えない人と文字を通して出逢い、その言葉がいつか自分の一部となり、ときには新たな何かを切り拓くきっかけにもなる。
そして澤地さんはネクラーソフの言葉に惹かれるままに、もしかしたら人生最後になるかもしれない旅の目的地にボルガ川を選び、1994年、混迷のただ中のロシアを旅してきた。
同じ時期、自分も夏休みを利用してモスクワの街を歩いてきたけれど、通り一遍の旅行者であった自分が見てきたことは皮相的だったと思わざるをえない。人生経験の差か、それとも他者へのまなざしの深さの差だろうか。
ボルガ川を河口まで旅した澤地さんが見た白鳥の飛翔の場面が印象的だった。
カスピ海へと注ぐデルタ地帯、ふと葦の茂みが途切れ湖面が見渡せるようになった瞬間、何百という白鳥が飛び立った。首を真っすぐに伸ばして、空へと。
「大河が大きな流れのままカスピ海へ達するのではなく、網の目状にこまかにこまかに枝分かれしてゆくことに、いのちの再生の姿を感じます。それは、その人その人にあった形で生きてゆく生命の強さを象徴するような川の終わり方です」
ならばその川の終点で図らずも目にした白鳥の飛翔は、人生の希望を示唆するような光景ではなかったか。
川は終わる。けれど終わらない。水は絶えず流れてくる。
個人の人生は終わる。けれど世の中は続いていく。いつも、どこかに希望を抱いて。
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