自明のこととはなんだろう

「来福の家」温又柔

両親が日本人で、生まれたときから日本で暮らしてきた。だから自分も日本人であることは、当たり前のことだった。外国の言葉を勉強するのは未知の世界を垣間見る感じで面白いことだった。
けれど、もし両親が外国人だったなら、自分だけが日本で生まれ育ち、家族の中で自分だけが日本語ネイティヴだったなら、どうだったんだろう。

これは台湾人の両親を持つ、日本生まれ日本育ちの女の子(といっても大学を出たところだけど)のお話し。
彼女の両親は当然、中国語も台湾語も話す。日本で暮らしているので日本語も話せる。6歳年上のお姉さんも、似たような感じ。
けれども主人公の彼女にとっては中国語や台湾語はほぼ外国語で、耳で聞いてわかるけれど、音と文字が頭の中でつながっていない。そんな彼女が大学を出て、中国語の専門学校に通うようになって、ようやく音と文字がつながる。ただ、その文字は大陸の文字、簡体字。発音も大陸の中国語。独特の反り舌音が難しい。
専門学校で「大陸の」中国語を習い始めた彼女が話す中国語は、作中、簡体字で表記される。両親の中国語は繁体字。
二種類の中国語と台湾語と日本語が自在に入り混じる様子は、外国どころか国内の引っ越しさえしたことがなく、標準語世界だけで生活してきた自分には想像もつかない言語風景だ。そして、日本生まれの外国人という立場の複雑さも。
いっそのことヨーロッパとかアフリカとか、人種のちがう外国人ならまだしも、見た目がよく似た東アジアの人だけに、よけいに自分が何者なのかという問いを、彼女もお姉さんも抱き続けてきたのではないか。
それでも彼女がどこかおっとりと、ものごとをしなやかに受け止めているように見えるのは、ひとりで「日本」という環境と闘わずに済んだからかもしれない。彼女にはいつもお姉さんがいたのだから。そしてきっと、お姉さんのほうは、そういう葛藤とひとり闘ってきたのかもしれない。
同じ本に収録されている「好去好来歌」という小説の主人公の女の子はまさにそういった闘いの最中にいて、正直、読んでいて辛い。過度に敏感すぎる彼女の行動がエキセントリックにしか見えなくて、気持ちがついていけないのだ。
もっとも、こんな感想は、日本で日本人として当たり前のように生きてきたからこそなんだろうな… そういうことに気づかせてもらえた一冊。

陽は中天を過ぎて 2nd season

第二人生。 ここから歩いていこう、 鮮やかな夕映えのなかを。 大丈夫、自分はまだ生きている。

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