心を洗う
暑い暑いと思っているうちにいつのまにか10月になって、家々の庭では百日紅がまだ夏の名残のように色鮮やかな花を咲かせているのに、ふと金木犀の香りが鼻をかすめたりする。
今日はひたすら歩きたい気分だった。
歩いて歩いて、心に受けたこの衝撃を少しでも和らげたかった。
いよいよ中間決算期が始まった週の後半、久しぶりに仕事で大きなミスをして、いろんな人に迷惑をかけてしまった。
10月1日の朝、この一年はへんな年でなにか現実味のない日々を過ごしているうちにもう秋になってしまった、せめて残りの3ヶ月は心機一転してもっと充実した日々を過ごしたい、と思った矢先のこの出来事。
自分ひとりで片付くミスならともかく、これだけたくさんの人に迷惑をかけたことがいたたまれない。月が改まって再スタートすることを願っていた分だけ、出鼻を挫かれた気持ちも強い。
…わかっているのだ、これはたぶん、罰。
この半年でリモートワークがすっかり常態化して、人と顔を合わせなくても支障なく仕事ができるようになった。
仕事もプライベートもずっとひとりで過ごす生活が長くなって、元々人嫌い気味だった自分はこのところいっそう人嫌いに拍車がかかっていくのを感じていた。
通勤すれば隙間なく座席に座っている乗客にうんざりし、出社すればリモートワーク推奨のはずなのにほぼ全員揃っている自分のチームの仲間にうんざりする。
近くに他人がいることに、耐性がなくなっていたのだ。
そして、そんな自分の偏狭な心のありようを狙ったかのように、そのミスは起きた。
というか、一年以上も前に起きていたミスが、一番面倒なタイミングで発覚した。
当然、自分ひとりではどうにもできるものではなく、あちこちの部署の人に力を貸してもらってとりあえず急場を凌いだ。自分とは直接やりとりのない、名前も知らない人たちにもさぞかし負担をかけたはずだ。
胃の底が焼き切れるような、脚が震えて立てなくなるような、そんな感覚を味わった。
…だからやはりこれは罰なのだ。
毎日、自分は自分なりによくやっている。
決して自分を低く見る必要はない。
けれどそれがいつか、どこかでひっくり返って、他人を軽く見ることにつながっていたのではないか。
他者の存在を煩わしいと思う、それは慢心というものではなかったろうか。
振り返ってみれば自分にはこの慢心の癖があって、その慢心の度合いがひどくなるたびに手痛い出来事に見舞われてきたように思う。
どうして過去のあれこれにちゃんと学べないのかいっそ不思議なくらいだ。
今度のこともまた忘れてしまうのだろうか?
いや、どうか忘れてしまわないように。
人はひとりで生きているのではないという当たり前のことを、
自分が今日いちにちを無事で過ごしたなら、それはどこかの誰かが支えてくれたおかげなのだということを、
どうか忘れてしまわないように。
慢心に曇りやすいこの心は、その都度、洗っていくしかない。
そうしてきれいさっぱりと洗い流したなら、それこそ心機一転、出直そう。
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