小さな一歩

歯が抜けた。
いつ取れたのかわからない。
食事をしていて、なんだか口の中の様子がおかしいな? と思ってよくよく見てみたら、虫歯になったのでごっそり削ったあげくに被せものをした、その歯がなくなっていた。
いつなくなったんだろう。
というか、なくなるまで、ここに被せものをしていたこと自体を忘れていた。
先生は、食べちゃったんですかね、と笑いながら「保険で作り直せるようになるにはあと2か月ありますね」と言った。
2年前。
たいして昔のことではないのに、2年前の夏、虫歯の治療をしたどころか、ほかになにをしていたのかも思い出せない。
歯を入れた当初の違和感も、恐る恐る食べたり歯を磨いたりしていたことも、慣れるにつれて忘れていた。

コロナのせいにするわけではないけれど、でも確実にもともとのインドア気質に拍車がかかって、自分の世界は驚くほど狭くなった。
約8畳のワンルームと、仕事の合間にちょっと買い物に行く近所の商店街がいまの自分の世界。
自転車で次はどのあたりまで走ってみようかとか、まだ乗っていない電車の路線はどこだったかな、と地図を見ながらあれこれ考えたりしていた時期もあったのに。

出かけないことがだめだとは思っていない。
むしろ、無理にどこかに出かけないでも済むことはありがたい。
週末の昼下がりは、お茶を入れて本を読んだり眠ったりしておかないと、平日とても業務をこなしきれない。それは体力の問題でもあり、気力の問題でもある。
ただ、たぶん、あまりにも殻にこもっている自分のことが頭の片隅で気にかかっていたのかもしれない。
こんな記事が目に止まった。
いつもどおりの服、いつもどおりの食事、いつもどおりの買い物。
生活はいくつもの「いつもどおり」の枠の中にあって、たとえ少しだけであっても、いつもとちがうことをするのは勇気がいる。
けれど足を踏み出してみたっていいのではないか。だってこの人生は今回かぎりだ。
私が私でいられるのは長くても、もう50年はない。

で、自分が足を踏み出した先は近所のパン屋さんだった。
緑道沿いのそのお店は前から気になっていたのだけれど、なかなか敷居をまたぐことができなかった。
今日もお店の中を覗き見しながらいちど通り過ぎ、二度めも通り過ぎようとして、いやいやいや… と思い直し、お店のドアを開けた。
このドアノブをつかむ、それだけのことにこんなに逡巡したなんて、人が聞いたら笑うだろう。
真夏日の真昼のこととて、お客さんはほかには誰もいなかった。
ショーケースに並んだたくさんのパンを前にして、迷いに迷ってようやく注文。
お店のご主人はパンをトレイに取り分けながら「こちらもすぐにできますよ」とミルクフランスを勧めた。
じゃあそれも。優しそうな笑顔につられて注文を追加。

お店に入ってから出るまで、きっと5分も経っていなかった。
数年したら忘れてしまうのかもしれない。けれどこれも勇気を持って踏み出した一歩。
店長おすすめのミルクフランスは、おすすめだけあって絶品だった。こちらは忘れてしまうのではなく、日常になりそうだ。

陽は中天を過ぎて 2nd season

第二人生。 ここから歩いていこう、 鮮やかな夕映えのなかを。 大丈夫、自分はまだ生きている。

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