乎那の峰と引佐細江とー20170830

今回の旅のもうひとつの目的は先日の水戸に引き続き万葉の故地を訪ねることで、犬養孝先生の本に出てくる乎那(おな)の峰と引佐細江とを訪れてみようと思っていた。
特に引佐細江は犬養先生の本を読んで以来、郷愁に似た憧れを抱いている。かれこれ12年も。


乎那の峰も引佐細江も天竜浜名湖鉄道沿いにあるので、天浜線の乗りつぶしも兼ねてぐるりと回ってみることにした。
いかにもローカル線らしく、天浜線は一時間に一本しかない。乗りはぐれないようにはやめに始発駅の新所原に着いて電車待ち。

こじんまりしたホームをぶらぶらして豊橋方面を振り返ると、立岩の奇景が目に飛び込んで来た。新幹線で移動するとき、だいたいこのあたりでは寝てしまっているので、あんな場所があることを今まで知らなかった。

やがて電車が入線。
たった一両だ。かわいらしい。
湖を眺められるようにと、進行方向右側のボックスシートに陣取る。
電車は時折ひゅうっ、と汽笛を鳴らして田園風景の中をとことこと走り、無人駅をいくつか過ぎて、乎那の峰の最寄駅・奥浜名湖駅に着いた。
ここもまた、無人の駅。
乎那の峰はマンサクの群生で有名な場所で、花のころには花見客もいるのだろうけれど、真夏のこの時期、予想通り自分以外に降りる人はなく、 遠ざかる車両の後ろ姿を見送ってから駅を出た。

それにしても無人駅を舐めていた。
駅を出たら自販機くらいあるのではないかとおもっていたが、みごとになにもない。人影もない。万葉に歌われた乎那の峰まではほんの15分ほどだというけれど、その看板すらなかった。
曝井のときと同じだ。
どこをどう行けばよいのか。
あてずっぽうに歩き始めると、看板を見つけた。案内の文言はひどく頼りなかった。案の定、いつのまにか人さまの蜜柑畑の中に迷い込み、舗装された白い道はその畑の真ん中でぷつりと切れていた。
途方にくれる。
おそらく目の前に見上げるこの山が乎那の峰。
しかもガードレールも見える。どこかからあそこまで行けるはずなのだ。

けれどここまですでにけっこう登ってきているので、また降りて道を探すというのは気が進まない。
舗装の切れた地点にたたずみしばし考え、失礼ながら蜜柑畑を突っ切らせてもらうことにした。
少し登ると平らな場所に出た。ラジオの音が聞こえ、農家の奥さんがなにやら作業をしている。すみません、と声をかけるとひどくびっくりして振り返った。そりゃそうだ、花の時期でもない平日の昼日中、道もない畑のなかから、観光客が迷い出てきたのだから。
思った通り、目の前のこの山が乎那の峰で、すぐそこに見える登り口から頂上まではたいして時間もかからないという。
それならば登ってみよう。電車の時間にも間に合うだろう。奥さんに御礼を述べて山に入ったが…
早々に撤退。
山の入り口は薄暗く、両側から木の枝が迫り、何かの虫が飛ぶ羽音がひっきりなしに聞こえてくる。ついこの間、イラガの幼虫に刺されたばかりの身としては、半袖一枚で剥き出しの腕や首が気になる。
また刺されたら。しかも直に刺されたら。
恐怖に足がすくんで、先に進めなかった。
とっとと降りてきて、先ほどの農家の前を通る舗装道路を湖に向かって歩いてみた。
静かな景色が広がっていた。

湖沿いに広がる町、背の高い建物はひとつもなく、家々の屋根が柔らかな波のように連なる。
蜜柑畑と降り注ぐ陽射しと。


奥浜名湖駅から今度は寸座駅へ。
万葉集とは関係がないが、小高い場所にある駅からすぐ目の前に浜名湖を見下ろせると聞いて、先を急ぐ旅でもなし、すこし降りてみることにした。

時間があるので湖のほとりへ足を伸ばしてみる。浜辺に打ち寄せる波に手を浸してみると、陽射しに暖められて生ぬるい。

駅に戻り、小さな駅舎の中のベンチに腰をかける。風が吹き込んで気持ちがいい。
ふと見ると、古ぼけた鏡が壁に掛かっていた。 
開通記念。ということは昭和30年。
あれからここで、この鏡は破れることも欠けることもなく、どれほどの電車と人とを見てきたのだろう。


今回の旅のメインディッシュ・引佐細江の最寄駅である気賀駅はすっかり大河ドラマ仕様になっていた。プラットホームの柱という柱が、井伊の赤備えを思い起こさせる真紅の幔幕で飾られている。

浜名湖の東北の奥は都田川と井伊谷川が形成する細江で、萬葉のころは澪標がいくつも立てられていたのではないかという。
今では観光用のレプリカがひとつ、葭本川の河口付近の湖中に立つのみだというけれど、レプリカでも昔を偲ぶよすがにはなるかもしれない。
駅前に建つ大河ドラマ館に向かう人々を横目に、レンタルした自転車で都田川へと向かう。
川に出たらあとはひたすら川沿いのサイクリングロードを走る。

やがて前方に見えてきた。
澪標だ。
けっこう大きい。

焼け付く日差しのせいか、がっちりしたコンクリートの護岸のせいか、万葉のイメージは浮かんでこなかったけれども、奥深い入江の地形が作り出す風景、ほんの数歩ごとに変わっていくその景色は目を、心を引きつけて離さない。自転車で駆けていく爽快さも相まって、ずっとこの時間の中にいたくなる。

葦のそよぐ細江の風情をほんのすこし思い浮かべられる場所を見つけた。
秋になって、ものみなすべて枯れていく頃にここに来たら、また印象はだいぶ違いそうだ。


気賀を出た後はうとうとしてばかりで、ろくに景色を見なかった。湖畔を離れて車窓の景色が単調になったせいかもしれないし、昨日今日と炎天下を歩き回ったせいかもしれない。
この夏は思いがけず、犬養先生に連れられてあちこちと出かけてきた。本のいいところは、たとえ著者が亡くなって何年が経とうとも、読者はいつでもその著者に出会えるということだろう。
またいつか、先生の本を片手に遠出する日が来るだろうか…

陽は中天を過ぎて 2nd season

第二人生。 ここから歩いていこう、 鮮やかな夕映えのなかを。 大丈夫、自分はまだ生きている。

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