器の大小

午後はずっとお三絃の練習をしていた。
結局、新年の発表会でもう一曲やることになったので、練習せざるを得ない。
当初からやる予定だった曲のほうは順調に仕上がってきていると思う。しかし新たに加わったほうは… 
この前、先生のお情けでいったん上がりにしてもらったものの、人前で聞かせられるレベルでないことは自分がよく分かっているわけで、なんでこの曲もやることになったんだろ… と溜め息が出る。
けれど、いくら私がアマチュアだとはいっても、わざわざ時間を割いて聞きにきてくれる人たちのことを思うと、しばらくはこの曲の練習を優先しないと、という気持ちになる。小さな子どもの学芸会みたいに、間違えて弾いても微笑ましい、なんてわけにはいかない。真剣に練習を重ねて、できる限りのものを聞いてもらいたい。

しかし、こう長い時間集中すると反動で動けなくなってしまう。練習に区切りをつけたときにはもう、台所に立つ気力は残っていなかった。そういえば去年もこんなふうにして発表会前は食事から遠ざかり、おかげで多少ダイエットになったんだった。
こんな時、世の中のおかあさんたちはすごいな… とつくづく感じる。私は自分の世話だけで手いっぱいで、ご飯をつくる元気が残ってないなら食べないまでのことだけど、おかあさんたちは家族の食事やら洗濯やら、自分以外のこともこなさなくてはいけない。気力がどうとか言ってられないだろう。そういう、自分の外側にある軸に自分を合わせていくというのは、ものすごい葛藤なんじゃないか。日々そういう葛藤の中にいることで、人間の器が違ってくるような気がする。

私は自分ひとりきりの小さな器でも溺れそうだけれど、小さいなら小さいなりにちゃんと生きていければ、この甘ったれた半端な人生も赦されるだろうか。

陽は中天を過ぎて 2nd season

第二人生。 ここから歩いていこう、 鮮やかな夕映えのなかを。 大丈夫、自分はまだ生きている。

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